ハッシュタグがどうにも苦手である
ハッシュタグが苦手である。どうにもなじめない。
いや、自分でハッシュタグを使うことはある。あるのだが、使っているというより「使わされている」感をどうしても抱いてしまう。
#都庁爆破
— ココロヨい (@kokoroyo_i) 2018年1月2日
脚本が厳しい…無理に家族愛とオウム事件をからめちゃったら薄~いドラマできましたって感じ…
これなら2時間ずっと長谷川博己×渡部篤郎×吉川晃司が雑談するトーク番組で良かったな。司会は優香。その雑談映像を別室でリリーフランキーと寺島しのぶがモニターで見てやいのやいの言うっていう
使うことは使う。いつもモヤモヤしたものが残る。
ハッシュタグは「同じ話題を共有するためのアイテム」だ。ハッシュタグで検索すれば特定の話題についてつぶやかれた意見を見つけられるし、その話題の専門家も探せる。いやあ便利だ!!
つながることを強制されている感じ
ここからは完全に僕の主観である。主観というか被害妄想と言ってもいいだろう。
小学生のとき、担任の先生から「はいじゃあ4人1組のグループを作ってみましょう」などと言われたことはないだろうか。感覚としてはあの強制感に近い。なぜ理科の実験でグループを作らないといけないのか。そうかメスシリンダーが人数分用意できないから4人でひとつ使わせたのか。公立だからお金もなかったんだろうな。
きっとTwitter社的にはこんなことを考えているに違いない。
「ハッシュタグって機能をつけたぞ……つながれ…ホラお前らつながれ…!!これで検索すれば同じ趣味や関心事を持った人のツイートを見られるぞ!」
そんなことは知らない。“ただ自分の思っていることをつぶやく”だけのツールだったはずが、いつの間に“ただ自分の思っていることをつぶやく”と正反対の機能を持ってしまったのだろう。
「何となくハッシュタグに便乗して共通の話題で盛り上がるのが恥ずかしい」という不必要な自意識とあいまって、どんよりとした息苦しさを感じるのである。
僕はハッシュタグのほかに、もうひとつ苦手なものがある。
ハッシュタグを意気揚々と使う人たちである。
特に映画・ドラマ公式アカウントの「ハッシュタグ激盛りドチャクソ数撃ちゃ当たる作戦」は見ていて胃のあたりにズゥンと来るものがある。
ツイートの末尾に列挙された俳優名のハッシュタグ群。狙いはわかるが、見苦しさを感じてしまう。大体広瀬すずのファンはハッシュタグがあろうとなかろうと『ちはやふる』のアカウントはチェックしているだろう。そういうことです。
フェスだかなんだかのイベントが「ハッシュタグ #〇〇 をつけてツイート!」とキャンペーンを打っているのもいたたまれない。
ハッシュタグみたいなものは多分、ユーザー側の“非公式な盛り上がり”こそが真骨頂のはずである。そこを公式側がツイートを推奨してしまうと……それはちょっと違うのでは……と思ってしまう。かなり凝り固まった考えである自覚はある。
色々言ったが、結論はシンプルである。なんか自分の知らないところで他の人が盛り上がっているのが悔しいという、それだけのことである。