NTTドコモCM「星プロ編」がナラティブであることと、そのすばらしさについて
NTTドコモの新CMがすばらしい。
新田真剣佑、長谷川博己、浜辺美波、そして星野源。今をときめく4人のタレントを起用した「星プロ編」だ。
まずは「星プロ編」シリーズの一作目となる「はじまりの物語」を見てもらいたい。
どこからともなく現れる男・星あゆむ。
彼が訪れたのはさまざまなキャラクターが集まる世界「キャラまち」だ。そこにはキティちゃんが、『太鼓の達人』のどんちゃんが、鉄人28号が、六つ子が、ガリガリくんが、パックマンがいる。
そんな世界の片隅で、ドニマル、コスモフ、モンジュウロウはいまいち人気の出ないキャラクターとして活動(?)している。
3人には詳しいキャラクター設定があるようだ。気になる人は公式サイトで見てほしい。今重要なのは
・ドニマル……どうぶつ+アニマル
・コスモフ……コスモ(宇宙)+SF
・モンジュウロウ……モンスター+怪獣
名前の由来だけである。あとドニマルはドーナツが好き。可愛い。
3人の前に星P(星あゆむ)が現れる。キャラクター・ミーツ・プロデューサーが発生することで物語は始まっていくのだ。
「はじまりの物語」はなぜすばらしいのか
もうこれは逃れられない話なので、触れておきます。auはもう何年も前から、桃太郎、浦島太郎、金太郎の三太郎CMを打ち出していました。「キャラクター3人のストーリー」の路線でドコモより先を行っていたわけです。ネットを見ると、ドコモはauのパクリだ、なんて意見も見かけます。
ではドコモの「星プロ編」はauと何が違うかというと、ナラティブである、と指摘できます。
auの三太郎CMは第一弾からして、濱田岳、桐谷健太、松田翔太のセリフだけで構成されていました。
これがドコモの場合。「はじまりの物語」は最初から最後まで、一貫して星あゆむPの独り語り(ナレーション)で進みます。
CM全体が星野源のナレーションで包まれることで、「はじまりの物語」全体がまるで回想のような、壮大なストーリーの1パーツであるような錯覚を味わわせてくれるのです。
もっと細かい視点で見ていきましょう。
映像の冒頭は、まさに「トンネルを抜けるとそこは別世界」。大きく開けた空に、たくさんのモニター、たくさんのキャラクターが動きます。ひとことで言うなら、星Pにとっての展望が表れています。
対照的に、ドニマル、コスモフ、モンジュウロウは地下劇場を舞台としている様子。お仕事が終わったあとに階段で夕暮れを眺めるシーンも「空」は狭く、建物が邪魔ですね。
で、星Pがやってきます。彼ら3人を大きな空の下=キャラクター界のメジャーシーンに連れ出すために。
星Pとの出会いによって、3人の脳内にある活躍イメージが描かれます。若干ゆるめのサブリミナル。
映像の切り替えが絶妙に「速すぎない」ことで、特撮、SF、雑誌の特集など、画面上ではわずか数秒にしか満たない彼らの夢に視聴者がしっかりと余韻を味わう余白が残されているんですね。
CMのキャッチコピーは「WITH YOUR STORY」です。ドニマル、コスモフ、モンジュウロウの妄想にも似た脳内ストーリーが視聴者の頭に焼き付けられる。それはやはり、始めから鳴り続けている天の声、星Pのナレーションによる効果がここに集約されるからでしょう。
だからこそ、ドニマル、コスモフ、モンジュウロウが見る夢が、展望が、そのまま視聴者へポジティブなストーリー性を抱えて届けられます。
これがナラティブ。つまり語られる物語なんです!!!!!!!
実際にナレーションとして星Pが物語を語ってくれるので、直接的なナラティブだといえます。
auの三太郎CMではこういった演出は見られません。
ドニマル、コスモフ、モンジュウロウの3人をプロデュースする星Pによって語られるからこそ「はじまりの物語」は未来への展望に満ちています。
そしてシリーズの第二弾CM「みんなの期待」において、星Pを通して我々視聴者へ伝えられた展望は「期待」の言葉でもって表されました。
第二弾でもやはり、星Pのナレーションが進行の軸になります。
星Pから3人への期待と、3人から星Pへの期待。期待感が相互関係にあるのがポイントです。
文筆、音楽、芝居など、クリエイティブの怪物ともいえる星野源。そんな星野源がプロデューサー役なのも、一連のCMが訴える期待感に説得力を持たせる一助になっているのではないでしょうか。
記事冒頭ではキャラクター・ミーツ・プロデューサーと書きました。ですがそれは、視点を変えればプロデューサー・ミーツ・キャラクターの物語でもあるのだと思います。
ナレーションでも語られているように、3人のキャラクターは「キャラまち」の世界の片隅にいました。
これは完全に僕の妄想ですが、もしかしたら3人は「ありがとう、この世界の片隅に、ウチらを見つけてくれて」とか思ってるかもしれませんね。
細部に至るまで、ナラティブなコマーシャルメッセージに充実した作品。はたしてこれを安易に「三太郎のパクりだ」と言えるのか???
否!!!
モンジュウロウは可愛い!!!!!!!!!
余談
余談ですが、ドニマル、コスモフ、モンジュウロウは頭文字を並べると「ドコモ」になります。
ド・コ・モの順番は常に意識されており、例えば星PのTwitterのヘッダ画像も
CMでの3人の位置関係も
写真でも
左から順番にド・コ・モです。遊び心が忍ばせてありますね。
僕の言いたいことは以上です。
『嘘を愛する女』感想 過去と未来を「つなぐもの」
『嘘を愛する女』観てきました。高橋一生と長澤まさみに釣られて観てきました。
序盤のサスペンス感の盛り上げに対し、後半の謎解きパートはちょっと……な印象。ただ俳優陣と主題歌は本当によかった。吉田鋼太郎・川栄李奈・DAIGOだけでも観る価値あると思います。
映画をすでに観た人向けの感想となっていますので、ネタバレにご注意ください。
ストーリーは公式サイトに書いてありますのでそちらを。
http://usoai.jp/about/story.html
ざっくり言うと「同棲中の彼氏が病気で倒れた! 彼氏の身分は偽造されていた! 彼氏が書いている途中だった小説を発見! 小説に出てくる場所に行って彼氏の過去を探る!」となっています。
相手の過去、自分の過去をいかに消化するか
あらすじからもわかるように、この映画は「過去にどう向き合うか」のお話です。倒れた彼氏が桔平(高橋一生)。桔平の過去を探す彼女が由加利(長澤まさみ)。
ふたりを取り巻く他の登場人物が非常に魅力的で、『嘘を愛する女』を語る上では彼らは不可欠です。
吉田鋼太郎演じる探偵・海原は、妻の過去を「知らなければよかった」と後悔する男。妻の浮気を知り、娘が本当に自分の血を引いているのか疑って、離婚しました。
川栄李奈演じるゴスロリのココアちゃんは、桔平を「なんとしても知りたい」女。完全にストーカーと化しており、郵便物をパクっていきます。犯罪。
知りたくなかった男がおり、知りたがっている女がおり。
そして由加利は「相手の過去を本当に知りたがっているのかわからなくなっている女」です。中盤まではバリバリの行動力でもって瀬戸内海まで行っちゃう。と思いきや、途中から彼女のなかで迷いが生まれる。過去探しへの積極性が息を潜めます。
由加利は桔平の過去に向き合って向き合って、最後には彼氏の書く小説に書かれた「女性」が自分であると知る。
この「女性」は亡くなった前妻ではなく「今のパートナー」である由加利なんですね。これによって、桔平は自分の過去へ自分なりにケリをつけようとしていたことが描かれます。
以上をまとめると、桔平の残した小説は表面上は過去を描くアイテムでありながら、その本質は未来を見つめたものだったとなります。
ただし桔平はあの悲劇を、完全に過去の出来事として消化したわけではないでしょう。
(あえてあいまいな表現にとどめられているので、本当はどうなのかは観る者の解釈しだいですが)
むしろ、忘れるために無理やり胸の内の深い所へしまいこんでいる印象を受けます。だからこその偽造身分証であり、だからこそ他人に紛れこめる「東京」を選んだ。
つまり「過去にどう向き合うか」は『嘘を愛する女』の入り口であって、出口は「過去に向き合った上で未来をどうしていくか」がテーマになっていくわけです。
だから最後に桔平は目を開け、希望的な未来がほのめかされたところで幕がおります。
主題歌『つなぐもの』のメッセージ
で、この映画の主題歌『つなぐもの』がストーリーを補完する名曲なので、ぜひとも触れたい。
歌は松たか子で作詞は坂元裕二。おっと『カルテット』感が急に増してきましたね。
歌詞を一部引用します。曲中で唯一リフレインされている歌詞です。
つつみ つむぎ つづけ つなげるもの
『つなぐもの』の歌詞には「記憶」「思い出す」「シーツにのこる体温」など、過去を思い起こさせるワードが意図的にちりばめられています。
それらを「つつみ」「つむぎ」「つづけ」て、さらに「つなげるもの」。過去を未来にどうつなげていくかというメッセージが読み取れます。さらに歌は続き、以下のように締めくくられます。
つなげ つづけて つながるもの
過去から現在は地続きで、未来へとつながっていく。『嘘を愛する女』が伝えたい核の部分は、坂元裕二のつづる歌詞を聴いて初めて完成すると言えるのではないでしょうか。
いやホントにいい曲なんですよ……
最後に
まとめとなりますが、これだけは言わせてください。
長澤まさみの肌がすごくきれい
ハッシュタグがどうにも苦手である
ハッシュタグが苦手である。どうにもなじめない。
いや、自分でハッシュタグを使うことはある。あるのだが、使っているというより「使わされている」感をどうしても抱いてしまう。
#都庁爆破
— ココロヨい (@kokoroyo_i) 2018年1月2日
脚本が厳しい…無理に家族愛とオウム事件をからめちゃったら薄~いドラマできましたって感じ…
これなら2時間ずっと長谷川博己×渡部篤郎×吉川晃司が雑談するトーク番組で良かったな。司会は優香。その雑談映像を別室でリリーフランキーと寺島しのぶがモニターで見てやいのやいの言うっていう
使うことは使う。いつもモヤモヤしたものが残る。
ハッシュタグは「同じ話題を共有するためのアイテム」だ。ハッシュタグで検索すれば特定の話題についてつぶやかれた意見を見つけられるし、その話題の専門家も探せる。いやあ便利だ!!
つながることを強制されている感じ
ここからは完全に僕の主観である。主観というか被害妄想と言ってもいいだろう。
小学生のとき、担任の先生から「はいじゃあ4人1組のグループを作ってみましょう」などと言われたことはないだろうか。感覚としてはあの強制感に近い。なぜ理科の実験でグループを作らないといけないのか。そうかメスシリンダーが人数分用意できないから4人でひとつ使わせたのか。公立だからお金もなかったんだろうな。
きっとTwitter社的にはこんなことを考えているに違いない。
「ハッシュタグって機能をつけたぞ……つながれ…ホラお前らつながれ…!!これで検索すれば同じ趣味や関心事を持った人のツイートを見られるぞ!」
そんなことは知らない。“ただ自分の思っていることをつぶやく”だけのツールだったはずが、いつの間に“ただ自分の思っていることをつぶやく”と正反対の機能を持ってしまったのだろう。
「何となくハッシュタグに便乗して共通の話題で盛り上がるのが恥ずかしい」という不必要な自意識とあいまって、どんよりとした息苦しさを感じるのである。
僕はハッシュタグのほかに、もうひとつ苦手なものがある。
ハッシュタグを意気揚々と使う人たちである。
特に映画・ドラマ公式アカウントの「ハッシュタグ激盛りドチャクソ数撃ちゃ当たる作戦」は見ていて胃のあたりにズゥンと来るものがある。
ツイートの末尾に列挙された俳優名のハッシュタグ群。狙いはわかるが、見苦しさを感じてしまう。大体広瀬すずのファンはハッシュタグがあろうとなかろうと『ちはやふる』のアカウントはチェックしているだろう。そういうことです。
フェスだかなんだかのイベントが「ハッシュタグ #〇〇 をつけてツイート!」とキャンペーンを打っているのもいたたまれない。
ハッシュタグみたいなものは多分、ユーザー側の“非公式な盛り上がり”こそが真骨頂のはずである。そこを公式側がツイートを推奨してしまうと……それはちょっと違うのでは……と思ってしまう。かなり凝り固まった考えである自覚はある。
色々言ったが、結論はシンプルである。なんか自分の知らないところで他の人が盛り上がっているのが悔しいという、それだけのことである。
壁に穴が空いている
こんにちは。いや「こんにちは」ってね、そんな挨拶はないですよ。ここはインターネット。こんにちはなんてないんですよ。
僕ですか? 乗り込んだ電車に美女がいなかったら次の駅で別の車両に移ります。そういう生き方をしています。
壁に穴が空いた
数年前から僕がよく通っている場所があるんですが、最近ね、そこの施設内の通路の壁に穴があけられたんですよ。2回も。大盤振る舞いかよ。穴の大盤振る舞い。いや冗談ではなく。
1回目のはタテ30センチ、ヨコ15センチくらいです。ちなみに犯人はまだみつかってません。誰やコラやったやつ出てこいや。
2回目は、つい最近。最初にやられた穴の反対側の壁に、1回目の半分くらいのサイズでね、可愛らしい空間を作ってもらいましたよ。ええ。ちなみに犯人はまだみつかってません。誰やコラやったやつ出てこいや。
穿つ
デンマークだかどっかの国にはね、「ヒュッゲ」っつー言葉があるらしいです。意味は「居心地のいい穏やかで温かい空気」みたいな。他の言語で置き換えられない言葉らしいんですわ。「ヒュッゲ」。
それ言うたら日本語にも色んな言葉があります。穴を「穿つ」なんていうのはまさにそれだと思うんですね。辞書を引くと(穴などを)空けるみたいに書いてあります。なにその穴空け専用ワードみたいなの。マンホールオープナー(※1)かよ
(※1……てこの原理を使い、マンホールのフタを開けるためだけの道具)
で、「穿つ」。みなさん使ったことあります? この言葉。ないでしょ。あるとしたらあんたは中二病です。例外はありません。
今回の犯人は「壁を穿ちてえな」なんて思ったんでしょうかね。
1個目の穴も2個目の穴も、ちょうどイイ~~感じの蹴りを入れられるような高さにあるんです。あ~ちょうどいい壁があるから穿っとこうかな? みたいな。オッ部長、帰りに一発、これ(蹴りのジェスチャー)穿っときますか? じゃないんだよ。世の中にはやっていいことと悪いことがあるんだ。
イヤなことがあっても壁を蹴ってはいけない。もし事故で穿っちゃったら「ごめんね」って謝らないといけない。ビール瓶で後輩を殴ってはいけない。
社会のルールを守ろう
真面目な話ですよ。はい今から真面目な話をします。このブログ史上初ですよ。
勝手に公共の壁に穴を空けるのは、すみません間違えました。「穿つ」のは、犯罪ではないでしょうか。器物破損とか? 僕は法律家ではない(逆転裁判は好き)ので知りませんが、恐らく不法浸入とかもくっついてくる話でしょう。
出るとこ出たら犯人は必ず負けますよ。いや「出るとこ」って、むしろ壁凹まされとるやんかーい!ってね、こういう冗談に「不謹慎」とか言ってくるカスの家に5万匹のハムスターを派遣して全てのケーブル類をかじらせたい、僕は常日頃からそう思っとります。
愛着がわく
常日頃から壁の穴を見てるとね、次第に愛着が湧いてくるんです。
前の穴はもう塞がれてしまいました。業者さんによって。業者さんありがとう、穴はきれいにふさがりました。
2個目の穴は、いつ頃ふさがれるでしょうか。お相撲さんがリモコンで殴ったとかよりも、そっちのほうが重要な問題です。
もはや「穴がある」状態が普通になってきました。穴が空いているほうが居心地がいい。なかなか言葉では言い表せない気持ちですね。強いて言えば「ヒュッゲ」でしょうか。そういえば1個目の穴がふさがれたときも、妙な喪失感がありましたね。埋められたはずなのに喪失感がある。不思議じゃありませんか。今流行ってるアレですよ、エモいってやつ。たぶん。
それでいうと、美人を探して電車の車両を移るとき。あのときの「エモくなさ」っつったらありません。エモの対極。自分今なにやってるんだろうって気分になります。美人がいたらハッピーですけどね。
美人がいたら、自分は座席に座らないんです。こっちが相手を見上げる形になって不自然ですからね。相手が座ってる状態がベスト。
え? 意味がわからない? あなたんちにハムスター5億匹送りこみます。
寺田心とマツコ・デラックスが出会い、サードインパクトが……「ゆめぴりか」2017年TVCM
アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』において、人類と敵対する使徒たちは、第三新東京市の地下、NERV本部のリリスを目指しているとされていました。
もし使徒がリリスに接触すれば、サードインパクトが起こり、人類は滅亡するそうです。Wikipediaにそう書いてありました。
「ゆめぴりか」2017年TVCM
寺田心と、マツコ・デラックス。
出会ってはいけないふたりが、ついに対面してしまいました。
「マツコ&有吉の怒り心党」などを観ていた人にはわかると思いますが、マツコ・デラックスは"出る杭ポジション"なタレントには容赦なく、愛のある毒針を仕込んでいく人です。
致死性の毒じゃなく、なんかちょっと肌ヒリヒリするな……? くらいの毒。それでいて愛がある。
大人のタレントならいいんです。相手のキャラをいじって(マツコのイジりの愛と毒の混合率はいつも絶妙なバランス)終わりなので。
そこに、寺田心。子役のトップを走るカリスマチャイルド。
「ぶりっこ」
「猫かぶり」
「こまっしゃくれ」
「あざとい」
子役としては名声ともいえる、これらの称号。そのすべてを欲しいままにする、寺田心。
しかもマツコは寺田心について「簡単に騙されるわよ、あの辺のペラペラな大人たちが」「恐ろしい子だわ」と記者会見で言っていました。もしそんなふたりが相まみえたら、どんな悲劇が起こるのでしょうか。
芸能界でもまれているとはいえ、彼はまだ子ども。マツコの毒針を受けたら、どんな展開になるか想像できません。それこそ、『エヴァンゲリオン』のサードインパクトに匹敵する事態に……
危ない、逃げろ寺田心! こらえろ、マツコ・デラックス!! このままふたりが出会ったら、サードインパクトが……
起きませんでした。
このCMのピークはやはり、最後にマツコが浮かべた形容しがたい表情でしょう。
「えっなんでお前そんな北海道に食いついたん……?」っていう。
そういった細かな違和感に、一瞬の表情だけですべてを物語る。マツコ・デラックスの芸達者っぷりにただただ脱帽。
あるいは、あのわずかな表情筋のこわばりこそ、小さなサードインパクトだったのかもしれません……(かっこいい終わりかた)